命
2001年9月16日ここのところ、愚痴ばっかり書いてしまっているので、今日はちょいと毛色の違う話でも。
まあ、NYのテロで多くの犠牲が出てしまったということにも関連して、今日は「命」について考えていることを書こうと思う。
今でもはっきり覚えている。大学一年の時の政治学の授業でのことだ。内容は、大戦中に硫黄島で多くの犠牲が云々というものだった。
授業後、中国からの留学生が感想を求められ「私にとっては、人間の命も虫の命も同じ重さです」とはっきり言いきった。そのコメントを聞いていた俺は、「ああ、偽善者がいる」と思った。
俺は口が裂けたって、人と虫の命の重さが同じとは言えない。さらに、批判をおそれず言えば、俺からすれば人間の命だって重さが全然違う。
例えばだ。親父と母親の命の重さは同じだけど(比べることすら出来ないが)、親父とそこらにいるおっさんとでは、俺にしてみりゃ親父の方が遙かに重い。(反対に、おっさんの家族からすれば、当然おっさんの方が大切)
つまり俺の言わんとしていることは、自分と対象としている人物との関係が深ければ深いほど、逆に浅ければ浅いほど、その人の命というものの重さが違ってくるということだ。
極端な例だけど、目の前で瀕死の重傷(同程度)を負った2人の人間がいるとする。1人は友人、もう1人は面識のない人。同時に2人は運べないとして、あなたならどちらを先に助けますか?
ええ、俺なら間違いなく友人ですよ。
イエローモンキーの歌で、「飛行機が落ちました。乗客に日本人はいませんでしたと嬉しそうに・・・」といった歌詞があった。イエローモンキーはそれを批判していたが、俺は違う。良かったじゃん、日本人がいなくて、と思ってしまう。
見ず知らずの外国人よりも、少なからず日本人というIDを持った人の方が身近に感じはしませんか。もしそれが親兄弟だったらどうですか。
今日の日記は、別を図るため誇張して書きました。テロで犠牲となった方に対し、決して何の感情も抱いていないわけではありません。また、自分が行方不明者の家族という立場だったらと考えると、彼らの一日も早い救出が望まれて仕方ありません。
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