黒豆茶
2001年3月31日いきなりですが、「十勝」っていう甘納豆の会社、知ってる方いますか?今日はそのお店の人気商品、黒豆茶を買いに行きました。
いつもは、川口(赤羽の弟の所に行く途中にある)で買うんだけど、今日は埼玉県の大利根町で買いました。
そのお店は和菓子(豆菓子)の店って言ったら良いのか、とにかく、甘納豆やどら焼き、お饅頭からお赤飯まで売っています。
なかでも人気なのが、上にも挙げた黒豆茶なのです。ウチの両親だけでなく親戚一同みんな黒豆茶のファンで、中には工場から直接取り寄せている叔母さんもいるほどです。
明日おばあちゃんや親戚の家に行く用事があるので、折角だから手みやげに持っていこうと思ったのです。
着いたのが11時過ぎくらいだったかな。雨も降っているのに、お店には商品を買い求めるお客さんがひっきりなし。
そこのHPです。
リンク
ぜひ一度お試しを。
明日が3月最後なのね
2001年3月30日今日は一歩も家の外に出ていない。なんて不健康な生活を送っているんだろう。地元の友人達は就職していて普段は遊べないし、何より銀行の課題がたまっているんだよね。
入行前課題=日経データ表作成
円・ドルレート、短期金利、長期金利、日経平均株価のデータを毎日付けいていくものなんだけど、これがややこしい。日経新聞に書いてある数値を書き写すだけなら簡単なんだけど、それらの変動要因を探らなければならないんですよ。「財相のこういう発言があったため・・・」とか「都銀と外銀の資金調達に格差があるのは・・・」などなど。
こういうのって毎日つけるのが本当なんでしょうけど、悲しいかな、いつもの悪い癖で、後でやればいいかって思って先延ばししちゃうんだなぁ。いや、新聞は毎日読んでるんだけど、いちいちそれらを考えてノートに書き込むのが面倒くさいんだよね。だから今頃大変なんだけどさ。
本日は雨天なり
2001年3月29日俺は雨の日が好きだ。まぁ、時期的に桜の花を落としてしまうのが難点だが、とにかく、雨という天気が嫌いじゃないのである。
雨の日は気分が落ち着く。考え事をするのにピッタリだ。特に、今日のようなしとしとと降っている雨ならなお良い。屋根に落ちる、もの寂しくさせるような雨音のリズムを、俺は心地良いと感じるのである。
こういう日はいつにも増して優しい気持ちになれる。
そして、蜘蛛の巣にかかった雨の滴が、翌日の雨空の去った太陽の光に輝くのを楽しみに、眠りに入るのが好きなのだ。
母親 「寒いし、洗濯物も乾かないし、庭の梅の花も散っちゃうし、雨の日なんか大嫌い」
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Wild Flowers (RAMER)
2001年3月28日急に泣き出した空に声を上げはしゃぐ無邪気な子供達
慌てふためく大人をよそに遠い瞳で 虹の橋 描いてる
「いつか渡れたらいいな」水色の夢ポッケに詰め込んで
心の地図広げて 未だ見ぬ世界へ 君もまた巣立ってゆく
いつでも心を満たすのは空の青さと風の声
一つ一つの想いをつないで
たとえどんなに明日が遠くても 霞んでみえても
押し迫る世紀末を越えて僕達はゆく
力強く旗を掲げながら
遙かなる歴史に名を馳せた英雄みたいに誇り高く
信じること誰かに伝えたい この唄に乗せて
やがては君も知るだろう 人生は映画みたいに甘くはない
厳しいものと覚悟して腹括って
信頼寄せられる友ならば生涯に一人、二人出会えりゃ幸せ
この地球上の何処かで君を必要とする者が待ってる
ちょっとくらい汚れたって構いやしない
その涙に嘘はないだろう
降りかかる悲しみさえも全部引き連れて
上を向いて 確かに光り感じてゆこう
おおっとぉー (古館風)
2001年3月27日気づけばこんな日記が5000カウンタにまでいっちゃってる。
ひとえに、みなさまのおかげです。
今日は書くことがありません。
これから銀行の課題をやります。
確かな時間
2001年3月26日25日は、ウチの大学の卒業式でした。ゼミの女性陣の袴姿は、普段からは想像がつかないぐらい、綺麗でした。
午後、後輩達から花束や記念品をもらった。ネーム入りのグラスでした。これは本当に記念になるよ。
その後、先生のお宅で夕飯をごちそうになった。ノルウェーに行って来たそうで、山羊のチーズやトナカイのサラミなどを食べさせてもらった。
西荻窪の先生のお宅をお暇してから、俺を含めた6人で池袋に出た。4月からは、みんな東京からいなくなってしまうのだ。このまま帰ってしまうのがどうも寂しく、それぞれ別れがたいと感じていたのだろう。池袋に着いたのが23時頃。はじめの頃はゼミの思い出話とか、それぞれにまつわる笑い話に花を咲かせていた。
閉店まで後1時間を残すばかりとなった深夜4時、急に場の雰囲気がしんみりしてきた。みんな黙ったまま、タバコを吸ったり水割りを飲んだりしている。1時間ほど、そんなままでいた。
店を出ると、俺達の心のように雨が降っていた。駅までゆっくりと歩いた。道すがら、「みんなになんて言っていいか分からねーよ」と1人がつぶやいた。それを言うのは反則だよ。俺は涙が出てきた。
駅に着いても、口を開く奴はいなかった。10分ほど立ちつくしていただろうか、1人が俺に向かって右手を出して「ありがとう」と言った。もう、駄目だった。我慢していたはずなのに、泣くのは俺達らしくないと思っていたはずなのに、涙が止まらなかった。まともに顔が見られなかった。「こっちこそ3年間ありがとう。」みんなとした握手は、力強かった。俺達は確かに同じ時を共有していた。
彼らとの付き合いは、これから一生続く。だからさよならは言わない。
今日の日記
2001年3月24日今日は赤羽からの日記です。
前回の日記の通り、昨日は卒コンでした。
こうやって後輩達と気軽に飲みに行けるのもこれが当面最後になるんだなと思うと、なんだかブルーになる。オールしてきたけど、いつもの様にはイマイチなれない。やっぱり、卒業するって淋しいですね。
さて、明日は武道館で卒業式です。両親と一緒に、12月に手術をしたおばあちゃんも来てくれます。
その後、学校で卒業証書をもらってから、ゼミの先生の家に夕食をごちそうになりに行きます。奥様がお赤飯を蒸かしてくれているそうです。こういうことをやってくれるのって、すごく嬉しいです。
明日もオールで飲みに行くことになっています。4年生だけで飲み明かすのも久しぶりです。就職すると、みんな全国に散らばっていってしまうので、全員そろって会う機会はそうそう作れなくなる。、明日は思い残すことなく、しばしの別れを惜しんできます。
明日の日記もお休みします。
ゼミの思い出 ゼミ生活編
2001年3月22日今日はゼミ生活の思い出を。
同期と初めて顔を合わせたのは新歓コンパで、その時は先輩達への挨拶(飲まされた)もあって、よく知り合うことはできなかった。
彼らの性格を把握したのは、新歓コンパから一ヶ月たった3月の春合宿の時だった。
俺は初対面の人と接する際には、いつも自分から話しかけるようにしている。まず、俺のことを知ってもらうことで、警戒を解いて(?)もらうのである。それで相手に俺がどういう人間かということを判断してもらってから、相手が自分のことを話してくれるまで待つ。勿論、俺もよく知らない人に心の内をさらすわけだから、相手の返答次第で傷つくこともあるんだけどね。で、俺のこんなやり方を理解してくれたのが、ゼミ長と頑張り屋のIだった。
思い出せば、ゼミ生活でのイベントではいろいろなことがあった。為替ブローカーや東京先物取引所、日銀に企業見学に行ったこと、OB会で20以上も年の離れた先輩方に可愛がってもらったこと、ボーリング大会や飲み会での一発芸など、数え上げればきりがない。
理屈抜きで、俺はゼミが大好きだ。
明日はゼミの卒コンがあるので、朝まで新宿でオールです。と言うことで、日記をお休みします。
同期飲み
2001年3月21日銀行の同期と、入行前に一度飲むかということになって、熊谷まで行って来た。俺の家からだと1時間チョイくらい。22時ちょっと前の最終に乗って、帰ってきました。
で、参加人数は俺を含めて7人。って、参加するって言ってた他のメンバーは何をしてるんだ?そもそも、言い出しっぺが来てないじゃん。でも、これくらいの人数が、ちょうど良かったのかも。
配属先の支店に挨拶に行ったときのことや、入行前課題の進展状況など、飲みながらいろいろな話をしました。前途洋々というか前途多難な生活が待っているのね。
ゼミの思い出 入室編
2001年3月20日大学生活を振り返って一番の思い出であるゼミについて書こうと思う。今日は、現在のゼミを選び入室するまでの、大学一年生時について。
俺の大学では、2年生からゼミに入室できます。そのため、入室試験は一年生時に受けることになります。複数のゼミを受験することは可能だが、入室は勿論不可。
俺は当時から銀行員志望だったので、金融(少なくとも経済系)の勉強のできるゼミを志望していた。金融部門のゼミは全部で4つ。その中から現在のゼミを選んだ一番のポイントは、初めての個別ゼミ紹介で、先輩が説明してくれた「ウチは勉強ムチャクチャ大変だけど、人間的・精神的にも成長するよ」と言う言葉だった。
そして「いろいろなゼミを見て回って、最終的にウチに決めてくれたら嬉しいな」という一言で、俺は、そういう風に言えてしまう先輩と一緒に勉強したいと強く思った。
何気なく言ったであろう先輩のその一言は、俺にとっては非常に大きな一言で、多くのゼミで盛んに言われた、「ウチのゼミは勉強楽だよ」とか、「自主性を重んじるよ」なんていう言葉よりも、何倍もの衝撃を与えた。
それ以降、ウチのゼミの説明会には必ず参加し、顔と名前を覚えてもらうにまでなった。「また来たね」と言われた時には、嬉しかった覚えがある。
迎えたゼミの入室試験は筆記試験と、先生・先輩方との面接。面接時の俺の受験番号は1番。今思うと、下手をすると印象が薄くなってしまう順番だが、そこは俺のキャラクター全開で、熱く自己PRと第一志望であることを語った。
「今まで独学で金融や経済について勉強してきましたが、先生には、そんな私の独りよがりの知識を直していただきたいと考えています」と、最後に付け加えた。
その面接が終了した後に、そのまま俺は一度も説明会に参加したことのないゼミの入室試験を受けに行った。
というのも、落ちていたら当然本命のゼミには入室できないわけで、そうなった場合、百歩譲って、どこでも良いからゼミには入室したいという考えがあったからだ。
そのゼミの面接で、「他のゼミを受けているようですが、両方受かった場合、どっちに来ますか」と聞かれた。そこでの俺の答えは、「迷っています」でした。こう言っては何だが、そのゼミの筆記試験では、落ちる気がしなかったからだ。素直に「こっちです」なんて答えたら、本命が受かった場合にキャンセルが効かないような気がしたからだ。これが後で気まずい思いをすることになるとは、思いもしなかった。
夜7時を過ぎ、ウチのゼミの合格者が掲示板に張り出され(ゼミごとに合否の発表方法は自由)、見事俺は入室できることとなった。嬉しかった。
先輩達に挨拶をし、赤羽のアパートに戻ろうと小田急線に乗って経堂をすぎた頃だ。突如、俺のPHSが鳴った。でてみると、先ほど挨拶をしたゼミ長さんからだった。
ゼミ長「お前さ、他のゼミも受けたらしいじゃん。そこの面接で、ウチと迷ってるって言ったんだって?どっちに来るの?」
俺「・・・(汗)、勿論こちらです」
ゼミ長「じゃぁ、向こうのゼミに断っておくからな、良いんだな?」
俺「はい、お願いします」
何で他のゼミを受けたことがばれてるんだろう、という疑問が頭から離れなかった。後で聞いた話だが、そのゼミ長さんの彼女が先ほどのゼミのゼミ生で、面接官をやっていたらしく、俺の面接後に「ケンタ(俺の本名が入る)っていう子が受けてるんだけど、そっちで採らないんならこっちで採るよ」と、ゼミ長さんに電話したのだという。今となれば笑い話だが、とにかく気まずかった。
こうして、俺のゼミ生活がスタートしたのだった。
早すぎる死
2001年3月19日親戚のA市市長が亡くなった。脳梗塞で入院中に心筋梗塞を併発させたようだ。
享年65歳。早すぎる死だ。三年前、市長選の陣中見舞いに行ったのを思い出す。見事彼は三選を果たした。生前、三期目の任期中だった彼は、あと一期はやりたいと意欲を見せていた。
地域の発展に長年にわたり努力してきた彼には、後任の市長が決まり次第、市民葬が行われる予定だという。
しかし、憎まれながら生きる人もいるこの世の中、任期中に惜しまれて亡くなる方が幸せなのかもしれない。
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♪ヨーロレイヒー♪
2001年3月18日両親と親父の姉夫婦(4人の姉+旦那さん)が、朝から東京へ出かけた。東京見物がてら、浜木綿子の出てるお芝居を見てきたそうだ。
残された俺と弟で、お昼に焼き肉を食べに行く。その焼き肉屋さんは食べ放題のお店なので、たらふく食べてきました。貧乏性は俺達は、ご飯を食べるとおなかがいっぱいになっちゃうので、とにかくお肉だけ食べた。途中から飽きちゃいました(自業自得という噂も)。
で、その焼き肉屋さんは俺の配属先の支店の近所だったので、帰りに弟に「ここに通勤するんだよ」なんて支店のそばまで行ってみました。
父親や俺の影響のせいか、弟も銀行を志望している。俺の自己PRや志望動機を、「捨てずにとっておいて」なんて言ってる。4月から大学三年生になる弟にとって、やはり就活は関心のあることらしく、ここのところ俺の就活時の話を聞きたがる。子供だとばかり思っていたけど、弟も成長してるんだなぁ。
就活中のみなさん、意中の職に就けるよう、がんばってください。
夕食をバーミヤンで
2001年3月17日依然からお願いしていた叔父(身元保証人)に、印鑑証明書をもらってきた。うちの銀行は変わっていて、身元保証人の年収や保有する財産(株など)等々を調査書に書かねばならない。すっごく聞きづらかったんだけど、「ケンちゃんが適当に書いておいて」と言われたら、適当に書くしかないですよね。多めに書いておきますよ、叔父さん(笑)。
午後は、スーツを買いにAOKIに行く。持っているスーツとは違う、ちょいグレーっぽいのにしました。
その後、めがねを買い換えようとお店まで行ってみたんだけど、最終的には買うのをやめました。ゆっくりフレームを見たかったんだけど、店員の猛烈なアピールがイヤで、「ちょっと考えてきますね」なんて言って出てきちゃいました。
洋服などと違って、めがねって必要な人しか店に足を運ばないじゃないですか。店員の、「どうせ買うんだろ」的な意図が感じられたので、もう、あの店には行きません。
母親 ダウンするの巻
2001年3月16日やってきました、恒例の母親の偏頭痛。
だいたい3ヶ月から4ヶ月に一度の割合で襲ってくる。そうなると吐き気と頭痛で大変。更年期障害も加わって、ここ2.3年は特にひどいらしい。氷枕を何度も取り替えながら1日中寝てました。もちろん家事もお休み。本当は、今日は町内の婦人会の日帰り旅行に参加する予定だったんだけど、キャンセルしてました。
この母親の偏頭痛、俺がガキの頃からありました。母親の母親(母方の祖母)もあったらしく、完全に遺伝ですね。詳しいことは分からないけど、ホルモン関係が原因らしいです。
俺はと言うと、部屋の片づけをするとうるさくなるので、銀行の課題をこなしてました。俺も今日は花粉症がひどく、鼻を何度もかんでいたら鼻の下が痛くなってしまいました。オロナインをぬっているんだけど、またすぐかんじゃうので効果が無いみたい。
今日も片づけ
2001年3月15日今日もお部屋の片づけを。現在進行中です。
今まで東京に住んでいたから、部屋を掃除をしてこなかったので、机や棚の上は埃まみれなのです。マスクして片づけてます。
しかし、出るは出るはのゴミの山ですよ。足の踏み場も無いとはこのことですね。とにかく、ひっちゃかめっちゃかです。
机の引き出しの中に、予備校時代のプリントやノートがあった。受験した大学の入試問題も全てとってあった。これらはもう5年も前の物。懐かしいです。捨てちゃうのが惜しいぐらいです。こうやってどんどん溜まっていっちゃうんですよね、俺の場合。
この日記を書いた後も、部屋の掃除はまだまだ続く・・・。
大掃除は大変だ
2001年3月14日今週から大掃除をやってるんだけど、捨てる雑誌が多くて大変です。段ボールで8個。
ダイアモンド、エコノミストなど山のようです。特に高校のころから購読している「電撃プレイステーション」なんか、NO1からとっておいたから、160冊を越えているのです。
物持ちが良いと言えば聞こえは良いけど、単に貧乏性で捨てられないだけなんです。みなさん、こういうことってないですか?
それから、家中の家具の配置換えも大変です。クローゼットやベッド、果ては冷蔵庫からテレビまで。
というのは、俺が家から通勤することが正式に決定したので、両親が二階から下りて、一階に寝室を移すことになったのです。この大移動が終われば、俺が自由に二階を使用できちゃうのです。
軽い物は母親が動かしてたけど、重い物はほとんど俺1人。弟は夜昼を取り違えてて、コタツでお昼寝。夜中はゲーム三昧。手伝う気はさらさら無いでやんの。
今日は一日疲れました。寝る前にリポビタンでも飲みます。
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お迎え
2001年3月13日昨日弟から、「風邪をひいて寝ている」という電話をもらったので、赤羽まで車で迎えに行きました。
予定では、弟は今日の夕方に電車で帰ってくるということだったのですが、確定申告で会社を休んでいた父親が、「だったら車で迎えに行ってあげよう」と言い出したのでした。
赤羽に着くと弟は元気で、「一晩寝たら直っちった」だって。「何で来るんだよ」とか言ってるし。
弟よ、親父の気持ちも酌んでやらなきゃ。可愛い息子を演じて(?)やるのも、子供の仕事だぜ。
着メロ
2001年3月12日今更ですが、初めて着メロをダウンロードしました(なんせ、206だったもので)。単音のメロディとはひと味違うね。なんか、楽しいです。
それで、グループ毎に着メロを変えられるように設定しました。
大まかに分けて3グループ。
・親族:Melodies of life(FF9より)
理由 生命は続く〜♪
・銀行関係者:永遠に(ゴスペラーズより)
理由 タイトルがうちの銀行名みたい
・友人:DREAMIN’(BOOWYより)
理由 夢を語り合った友よ、実現に向けて突っ走るぜ
+・非通知:Gambie Rumble(MOVEより)
理由 誰からかかってきたかはお楽しみ
こんな感じです。
そうこうしてたら、DREAMIN’が。他大学に通う幼なじみからの電話でした。卒業までのパンキョーの単位が足らなくて、追試の課題をやっているとのこと(汗)。おいおい。
引っ越し 総仕上げ
2001年3月11日引っ越し、完全に終わりました。親戚からトラックを借りて、アパートにあったすべてのものを運びました。実家に着いてから、それらを下ろすのにも骨が折れました。手伝ってくれた親父に感謝。
明日からそれらの家具を搬入するための大掃除が始まります。俺の部屋はとにかく汚いので、社会人になることを期に徹底的にやろうと思います。
今日は疲れているので、これにてお終い。
祝 マイカー通勤
2001年3月9日勤務先に挨拶に行ってきました。
あいにく支店長は不在だったのですが、副支店長、融資課長、事務課長、1つ上の先輩行員(融資課所属)の方達と会うことが出来ました。
銀行のHPでは、駅から徒歩20分なんて書いてあったんだけど、実際は30分以上あった。副支店長も、自動車通勤の申請を出しなさいと言ってくれました。やったね。
3時の閉店近くになったら、「仕事場を見ていくか?」言ってくれたので、遠慮なく見学させていただくことに。テラーのシャッターが閉まってからが大変だと言われているように、行員の動きが一段と速くなった。この職場で俺も働くんだなと思うと、ちょっとビビってきた。
明日は卒業者の発表。せんげん台駅のホームで友人と待ち合わせて学校に向かう予定になっている。そのままアパートに泊まって、明後日が引っ越しの総仕上げ。すべての荷物を運びます。
と言うことで、明日の日記はお休みです。